結局何が言いたいか

遺留品から解った砂井少年の要諦

〔1〕遅くとも15歳にして、少年愛の意味で愛されることを夢見ました。

〔2〕その夢は、少年の大志。少年の対社会的な良心とも不可分です。

〔3〕少年愛者なぼくの目でみて、見どころある少年。その身は消滅していますが、その大志は宇宙に漂っているので、少年愛者な彼氏を募集中。大志が彼氏のもとにあれば、宇宙の歴史のどこかで、再び組み立てられた少年の身も、おっつけ彼氏のもとに出現するでしょう。

どういうことなのか

〔1と2について〕
 いま青少年が含まれる世代間で想いをよせ合うことは、予め一律に排除されがちです。児童保護上の自由制限ながら、砂井少年の例では切実な自由が制限されるため保護になりません。児童への攻撃(例:一律な管理教育)から逃れ、少年として愛される瞬間にようやく希望をもちえたところを、追加攻撃するものです。最初の攻撃は体罰等として児童の権利で対処できても、追加攻撃は児童の権利の副作用なので対処不能です。一部少年を悲観させ、対社会的な良心をも奪いかねません。

 こういう少年と少年愛が存在したこと。これを強制力で排することに人道上の疑問があること。一人でも多く、ではなく、一人でもいいから、心ある人に、これを伝えたく思います。児童の権利を守り、その副作用を抑えるために――。

〔3について〕
 急に話が社会から宇宙に飛んで恐縮ですが、こんなに素朴な砂井少年が、全宇宙史において空前絶後の完全オリジナルである自信がないって話です。少年の思い出と大志はこうして電子データにできるほど再現可能性が高いものです。少年の身体も、思い出と大志とが何か少年像にインストールされれば済むこと。少年の主観など、より完全な再現も物理条件が同じように並べば済むことかもしれません。

 そこで少年愛者な紳士諸君におかれましては、姿も遺さず消えている亡き少年に愛の手を。少年が再び組み立てられるとき、あなた好みの姿で出現するために――。

短く

 姿なき実在児童の砂井少年及びその同志少年に限っては、もっと少年愛されるべき。それが世のため人のため供養のため。

※知らないサイト行くと「結局何が言いたいの?」と思うことあるので書いてみました。
 結論でなく「言いたいこと」です。「言いたくないこと」もあるのはこちら↓

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