シティの記憶

 ショートボブは少しのびて、肌はつるつるにして、ピチピチの青い半ズボンで、街に出た。ところが、そこは夢見る少年、行く場所といえば、大書店の怪奇幻想文学コーナー。立ち読みしながら、怪奇幻想な感じの人がやってきて少年愛の関係に陥るのを、ひたすら待っているのである。闇に乗じて攫われる・・・すでに言葉の上ですら成立しないことを求めた、さびしく暖かな日々。

 それは、少年の身を捧げるほど深刻で、かつ、間がぬけた日々だった。

 都会に出なければならないと、思い切って上京したこともあったが、なぜか東京は大森駅付近に降り立って、しゃなりしゃなりと練り歩いたこともあった。

砂井粒子碑「愛少年愛」(未刊)より

 大森シティ、のどかな家々と商店街。半ズボンから、つるっと長い脚が生えている男子高校生に、シティボーイの眼は釘付けであった――というか、庭仕事のおじいさんが、けげんな表情で冷たい視線をなげかけるのだった。

 書を捨て、街へ出て、歩いて、怪しまれて、帰るだけ。

 遺留品コーナーに列したい偉業だったが、残っているのは記憶だけ。出会い探しに関して、あさっての方向への努力が多い砂井少年だが、それにしても、なぜ大森なのか。これは記憶すらおぼつかない。

 大森について調べてみると、稲垣足穂ゆかりの地であることがわかった。また、様々な文士たちの街として、多くの碑が作られているのである。日記によれば砂井少年は図書館で『稲垣足穂作品集』(新潮社,1970.9第3刷1992.10)を読み、少年愛的な作品を愛していた様子。しかし、これは偶然の符合かもしれない。

 いつか、少年の足跡をたどるため、大森を再訪し、ついでに、足穂作品等に登場する界隈を歩いてみたい。これはサイト公開以前から計画していた。

 したがって、それより早くすべきことは、サイトを公開することだった。

 いったい何年、オフラインのパソコン内ウェブを増殖させる人生を続けようというのか。頭部をけがして死にかけて、このままでは死んでも死にきれないと思い、遺留品だけのサイトでいいと思い・・・やがて、サイト公開に専念できる休日がやってきた。その日、ネットにつないだ瞬間、パソコンは壊れた。同時に、血族の口論にまきこまれ、関係ないぼくだけが泣きくずれたうえ、逆に心配される始末。

 外は夏の嵐であったが、もう、大森に行くしか救いようがなかった。

 つまりこうだったんだろう――砂井少年は、己の限界を超え、大森散策を敢行したのだ。大森に何があるかとか、そんな場合じゃあなかったんだ、いつだって。

 電車に乗り込んだ。少年が生きあがいた故郷は、降り注ぐ豪雨のなか、遠ざかって行く。

 昼下がりの大森シティは、一転、晴れやかだった。蝉の声も、車の音も、日曜に駅前で待ち合わせる人々のざわめきも、平和的でうれしい。

 何も思い出せない。砂井少年の生きていた頃とは、街の外観も違っているだろうし、足跡はわからない。文学碑の地図が描かれた看板を、しばらく見続けた。日夏耿之介・・・萩原朔太郎・・・稲垣足穂・・・このコースでいこう。

 素敵な街だな。多くの石化した文人に出会うことができた。書物の世界に思い馳せ、気がつけば、炎天下に3時間。駅に向かうバスを待ちながら、硬水を買って口にする。

 体内が、注がれる硬水によって冷やされると、ふと我に返った。

 いくら健全な趣味な感じで、町おこしに添った散策なんかしても、それは夢なんだよ。ごまかして、サバイブしてるだけなんだ。

 染めずとも甘い茶髪の男の子が、体にくらべて大きな頭をふらふらさせながら、ふくらはぎを輝かせて遠ざかる後ろ姿を、バス停にたたずんで見ていた。

 また雨が降ってきた。バスに乗り込み、男の子からさらに遠ざかった。

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